私の人生は比較して比較された人生でした。
どうも、トシです。
私の学生時代1つの歌が一世を風靡しました。
No.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly One。
とても素晴らしい歌ですよね、カラオケでもよく歌います。
他人と比較してどうするんだ、君にも価値があるよと、優しく慰めてもらえます。
そう、この歌に私は慰めてもらっているのです。
私の人生を紐解けば比較という言葉失くして語れないものだと考えています。
小学生の頃は、かけっこの順位を友達と比較していました。4位でした。
中学生の頃は、外見を友達と比較していました。モテませんでした。
高校生の頃は、学力を比較していました。赤点でした。
大学生の頃は酒の強さやコミュ力を比較していました。すぐ酔っぱらうピエロでした。
全て負けてばかりです。
敗北の味しか知りません。
皆、私より優れていた。
思い出したら悔しい思いで溢れてきますね。
だからこそ、あの歌に慰められ救われているのかも知れない。
でも、だがしかし
本当に比較は悪なのだろうか?
No.1よりOnly One?
確かに大切だけど、初めからこの考え方でいいのか?
そう思ってしまうのはきっと私の努力が足りなかったから、後悔からそう思うのかもしれません。
今の私は思う、No.1になるための努力は美しいものではないかと。
努力した結果No.1になれなくていい、その後のOnly Oneなのだと。
No.1に『なれなくても』いい、もともと特別なOnly One。
思い出してください、花屋に並んだ花はどれも綺麗です。
綺麗に咲く努力ができた花が花屋に並んでいるのです。
そう思うと、やっぱり私は
かけっこで1位になるために、放課後に練習する努力はしていたのか?
カッコよくなるために、本を読み美に対する努力をしていたのか?
難関大に行くために勉強する多くの努力をしていたのか?
コミュニケーション能力の上げるために、嫌いな会話と向き合う努力をしていたのか?
していないですね、だからこその後悔が残っているのかもしれません。
今だから思えているのもあるかもしれません。
でも、今思えたからこそ、今の問題に直視し、No. 1になるための努力を行うべきですね。
それは誰にも気づかれない努力かもしれません。
でも思い出してください。
誰も気づかないような場所で咲いていた花もあります。
綺麗に咲いているのを誰が気づいてくれます。
なんなら自分で気づいて誉めましょう、あなたはOnly Oneです。
綺麗に咲く花のような努力を皆で頑張りましょう。