お久しぶりです。岩っちです。
日本経済について前回の続きをお話します。
今回は高度経済成長についてです。
第二次世界大戦後に朝鮮戦争(1950-1953年)が勃発し、アメリカを中心とする国連軍とソ連・中国の支援を受けた北朝鮮軍が衝突しました。
日本はアメリカにとっての前線基地となり、武器や弾薬の製造、自動車や兵器の修理など様々な特需がもたらされました。この「特需景気」は工業生産、実質国民総生産、実質個人消費などが戦前の水準まで押し上げました。
「特需景気」期間に政府は積極的に産業政策を推進し、重点産業に国家資金を投入しつつ設備投資を行ったため、3年程続いた朝鮮戦争後も、輸出業は好調を継続でき、この輸出に支えられるように好景気が続きました。
そして、1$=360円とする輸出に有利な固定相場制が導入され、円安なので輸出業の発展が加速しました。
当時、エネルギー源を主として石炭を使用してきましたが、1950年代末頃から石油に転換する「エネルギー革命」がおこり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並びました。中東から安価に原油を輸入できたため、経済拡大を後押しする要因となりました。
これらのおかげで日本は高度経済成長期に突入します。
この間、日本社会は経済の発展に合わせて大きく変化します。
まず、産業構造が大きく変わります。
農水産業などの一次産業の比重が下がり、第二次、第三次産業の比重が大きくなり、中でも製造業などの工業が発展しました。
工業の発展とは裏腹に農業が衰退したため、当時の内閣で「農業基本法」を成立させ、工業と農業の格差をなくそうと、農家経営の合理化を図りました。しかし、合理化の一環である農業の機械化を推進したことが、かえって農業離れを促進することに繋がり、農業は高齢者が主に担い、若い世代は都市部で就職するケースが増え、農業の高齢化・担い手不足といった問題が現在まで続いています。
都市部では地方からやってくる若年労働力が「金の卵」としてもてはやされるようになり、上京して大企業などに集団就職する動きが見られました。
その結果、各地方から都市部へ大規模な人口移動が生じ、都市部で就職した若者は結婚すると夫婦または夫婦と子供のみで暮らすようになり、核家族化が進みました。
大企業は経営規模の拡大に伴い、企業集団化や大型合併を繰り返して国際競争力を強化していきます。また、雇用の維持拡大や労使協調を進め、終身雇用や年功序列型賃金などが確立されました。
産業構造が大きく変わったことで、国民の生活も変化しました。
好景気に伴う所得増加を背景に、1950代年半ばには各家庭に「白黒テレビ」、「電気洗濯機」、「電気冷蔵庫」のいわゆる三種の神器と呼ばれる製品が普及しました。
そして、1960年代後半には、「カラーテレビ(Color TV)」、「クーラー(Cooler)」、「自動車(Car)」の新三種の神器(3C)が普及しました。
このようにして、大量生産、大量消費を前提とする経済が形成され、家電製品が各家庭に普及して、国民の生活が急激に変化した時期を「消費革命」と呼びます。
消費革命は国民の暮らしをとても豊かにしました。しかしその一方で、大量生産・大量消費は環境破壊や公害問題を深刻化させていきました。
四大公害病(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)では企業の経済活動が問題視され、被害をめぐる裁判は全て住民側が勝訴しています。
また環境破壊については、現在の企業が取り組むべき新しい価値観として、捉えられています。
このように問題をはらませながらも、新幹線や高速道路等の交通網も整備され、1964年に開催された東京オリンピックや1970年に開催された大阪万博などによる特需も重なり、世界的にも例のないスピードで経済成長が進みました。
しかし、1973年10月に第4次中東戦争が勃発したことで原油価格が高騰し、オイルショックが起きました。日本の産業は石油による製造業に支えられ成長していたので、原油価格の高騰によりその成長は終焉を迎えました。
1955年から1973年の日本は実質経済成長率が年平均で10%以上になり、高度経済成長期と呼ばれるようになりました。
この頃の日本は「Always三丁目の夕日」等、古き良き昭和の日本として映画などでも描かれることも多いですが、活気や希望に満ちた時代とも言えます。
現在は新型コロナウイルスのせいで、世界的に欝々とした雰囲気に侵されていますが、良くも悪くも転換期に立たされています。
これをチャンスと捉え様々なことにチャレンジしていく事が活気を取り戻すきっかけになると岩っちは思います。
では、また次回!!!