こんにちは。
日本には四季があり、1年を通して4度季節が移り変わります。
個人的な意見ですが、夏から秋にかけて、切なさや寂しげな感情が最も顔を出してくるように感じます。
活動的だった暑い夏が終わり、いよいよ寒くなる一方で、陽の差す時間も短くなり、すぐ暗くなります。
ある生き物たちはこの時期に冬眠の準備をし始め、あちこちを飛び回っていた昆虫たちは一斉に姿を見せなくなり、ある生き物たちは布団から出たくなくなります。
冗談はさておき、今回は私が19歳の頃の話です。
19歳といえば人生に四季があるならば血気盛んな夏真っ盛り。
しかしその頃、秋の訪れを感じるが如く、ふと思ったことがありました。
なぜ自分は生まれて生きているんだろう・・・
当時の私は、ことある度にその問いについて考えていました。
友人や先輩に聞いたりもしました。その時はまだインターネットで調べる手段がなく、今みたいにみんながブログに投稿したり、質問箱に質問を入れたら誰かが答えてくれるみたいなものもなかったし、Amazonで答えが書いてありそうな本を探すこともできませんでした。
途方もない哲学的な問いに誰も答えられる人はいませんでした。いや答えてくれてはいたけど、私が納得できる答えではなかった。
今も思いますが、この問いに対して、人間の誰もが納得する明確な答えを持っているとは思えません。
なぜ生まれたのか。
なぜ生きているのか。
なぜだかわからないけど生まれた。
なぜだかわからないけど生きている。
生きているから生きている。
死にたくないから生きている。
悲しむ人がいるから死ねない。だから生きている。
なんとでも言えます。
今でも明確な答えは出ていませんし、誰もが納得できる答えは存在しないということもある。
答えは最初からなくて、答えは自分で作るものだと認識したのもこの頃です。
私たちは学校教育を受ける過程で、答えのある問題を解き、答え合わせをする。
それを小学校からずっと、あるいは幼稚園から繰り返しやってきたために答えを教科書に求めるということが染み付いているのかもしれません。答えはどこかに書いてあると。誰かが知っていると。Googleが答えてくれると。Siriが教えてくれると。
しかし19歳の頃に抱いた問いしかり、納得できる答えがこの世の中にはないということも存在します。だったら自分で作るしかない。
結局の話をすると、
なぜ自分は生まれてきて生きているのか。
という問いに対して、
そんなもん誰にもわかるわけがない。人間が人の原理原則を把握した上で作り出したものではないし、自然の中の進化の過程で現在の人間の形態にたどり着いた訳で、酸素を吸って生きている。太陽の光を浴びて生きている。地球に生かされている。太陽に生かされている。
地球からしてみたら太陽からしてみたら宇宙からしてみたら人間が生きていようがいなかろうが、関係ない。
だったら、なぜ生まれてきて生きているのかを考えるのではなく、生きているんだから、どうやって生きていくかを考えようという結論に至りました。
今もその答えは変わっていません。
おそらく自分の中に一つのある道ができた瞬間だったと思います。
教科書も学校の先生もどんな偉人でも人格者でもGoogleでも答えが出せない問い。
問題提起としてはちょっと早大過ぎましたが、大体の問題において、答えは自分の中にある。そう思っています。
外に答えを求めようとするから、答えが見つからない。
実は足元に答えが落ちてるけどそれが見えない。
メガネをつけているのに、メガネが無い!どこ行った。誰かに盗まれたのか。というアレですね。
松下幸之助さんは、「原因は全て我にあり」という格言を残されているけど、原因を外に求めるから答えが見つからない。
つまり、何か問題が発生した時に人のせいにする人は自分が悪いとは思えない。内にではなく外に向けてしまう。
故に成長できず、同じことの繰り返しをしてしまう。
人を疑う前に、責める前に、自分を疑ってみること。
原因は全て我にあり。
答えは自分の中にある。